紅葉の秋景色を求めて、28日(水)信州安曇野地方を駆け巡ってきました。
先ず最初に向かったのは、眼下には大町市、目線の先には、餓鬼岳、鹿島槍ヶ岳など、既に白雪を頂いた着たアルプスの峰峰が一望できる大峰高原。以前は大峰牧場だったという高原の入り口に、丸く広がる斜面の真ん中に、大きく枝を広げ、どっしりと独り立つカエデの大樹でした。傘を広げたような枝張りは、周囲15mもあるという。地元では「大峰高原の七色大カエデ」といわれる超有名な、樹齢250年のカエデの大木です。
それは、秋になると黄、橙、赤など次々と七色に変化、朝陽が当たれば柔らかな紅色に、夕陽を受ければ、斜面全体が鮮やかな秋色に染まり、時間帯で色と景色の移ろいが楽しめるという。残念ながら、今回訪れた時は、既にピークを過ぎ半分色あせた褐色に変化していて、最も美しい姿は見れませんでした。それでも、この高原のシンボル的な存在の大カエデを見に、地元松本をはじめ、関東地方からも多くの人々がカメラを手に集まっていました。
紅葉狩人
「温泉に泊まって 片道無料キャンペーン」を利用して、23日 白山麓の瀬女(白山市尾口)の「かんぽの郷」に宿泊、翌24日 白山スーパー林道を岐阜県白川郷へ抜けて、山岳地帯の紅葉を満喫してきました。
国見展望台(1100m)付近は見頃との情報を得ていましたが、もう全山充分に紅葉していました。紅、オレンジ、黄、褐色に混じり針葉樹の濃緑が色を添えていました。ブナの原生林の紅葉は、鮮やかな色彩を放ってはいないが、実に渋い、趣のある、味わい深い斑模様をなしていました。
今年は、例年よりも1週間から10日位早いそうだ。今は山岳地帯、高原の紅葉だが、これから12月にかけて里山の紅葉、有名古社寺の境内の紅葉巡りが楽しみです。
紅葉狩人

武士の切腹は禄を子にゆずるーー。かえって利己的な美談がかったやり方でーーこのような陽動作戦は現代も多い。47士の一人は切腹せず末長く生きた。戦死された方に申し訳ないが生き延びる方が社会のためだ。さげすまれて生きるーーー勇気のいることだ。 俺は半太だ!!!
衣食住足ってゆとりある人は、お寺へ昔は持っていった。無い人は最小限の信心だけであとは生活に向けた。お金持ちの建てた寺を拝ましてもらって自分のことに精を出した。現代は教育費、旅行費がかさみ、他人が使う建物まで建て得ない。寿命を伸ばすためにも相当の出費がいる。皆が自分のことをきっちりやれば、特別の人は不用となる。 俺は半太だ!!!
名声、重職、家の格、ずいぶん努力してその後に残るのは人生の疲れと何がしかの小銭。東京成功物語も実は小さな自宅を建てるのがせいぜい。体内に残る「他人に良く思われよう」との数十年の疲れ。長子は更に墓を守らなければならない。うしろ指をさされても自分を大切にする人こそ今から長持ち。残酷物語は勤めや商売でうっすらと耳にしたろうが実体はもっと大変な人がいる。途中で気付き、戦勲狙うことをやめて47士の1人は切腹せず末永く幸せだったとかーー。 俺は半太だ!!!
幼い頃から成長の途中、ある人は何かことを成し、社会のためと教育によって立ち上がる。中には自分の生活はこの程度にして犠牲を出しても他人のためと片寄った社会活動までする。家族も「しょうのない人」と自己満足して活動する主人にサジを投げる。皆、やりたがってる奴にやらせておけ と冷ややかにその下で余得の分け前に預かる。強すぎる教育がもたらす、一見成功者の幼稚なシロウトの人々が実に社会に多い。退職してみてドンキホーテと気付く人は割りに少ない。 俺は半太だ!!!
祖父は50才前から釣しかしなかった。人生やはり50年は長寿化の今も遺伝子劣化からはそうだろう。祖父は家族の文鎮として いろりの前で皆への忠告係だった。そして自分は幸せ者だと洩らした。お寺を大切にし、東京の遠縁のことを気にしていた。私が50才になった時、母は「もう楽せよ。葬式出席やアドバイス係していれば良い」と言った。お寺は死を待ちにいく所でなく、世間を識りにいく所だ。今金沢仏像めぐりツアーに参加している。あまり近ずくと「ブツゾー」と叱られた。 俺は半太だ!!!
元東大教授 中村元氏は動物は死により死を知るが賢い人間に生きてるのに「他人の死、歴史の勉強、ちょっとした病い」から死を知るとの事。何となく有限であることが解る故、生きているうちは楽しく生きたい。他人に施せば感知できない死後に報恩してもらっても遅く、その前に効果あることをやりたい。
俺は半太だ!!!
教師は生徒のため尽くしても良いし、生活のため与えられた事だけ教えても良い。同じく生徒は友のため尽くしても自分の得点ねらいだけでも良い。社員も会社のためでも自分のためでも良い。数千冊の蔵書を持つ勉強家の先生とサラリーマン先生もいる。医師も教授も同じようである。本人次第で他人が強要する生き方に従う必要もない。 俺は半太だ!!!
静岡県伊東市にある「葛見神社の大樟」は、全国で19番目、静岡県下では「来宮神社の大樟」に次いでナンバー2の巨樹である。その大樟は、神社本殿の左横に、山を背にして堂々と立っていた。その樹様は、「来宮神社の大樟」にも負けないほどの凄みをもったものだった。ごつごつした、瘤だらけの風貌は正に古木、老木、怪木といった感じだ。幹の左側には、大きな空洞があり、その幹の中心部はほとんど無く、よく幹の外周りだけの部分で、これだけの巨体を支えているなーと思う。樹齢1000年以上と記されているが、実際はもっと経っているかも知れない。一説には、数千年ともいわれているそうだ。大樟は勿論、葛見神社の御神木となっているが、大樟の根元にも小さな祠が設けられていた。
大樟を御神木としている、この葛見神社は延喜式神名帳に記載されている「久豆彌神社」に当てられる古社である。約900年前の昔、葛見の庄の初代地頭 工藤祐高公(伊藤家次・・・伊東氏の祖)が伊東家の守護神として社殿を造営し、京都伏見の稲荷神社を勧請、合祀したのに始まる。
祭神は、葛見の神、倉稲魂命、大山祇命の三神。葛見の神は、不詳とあるが、これは、おそらく御神木になっている大樟それ自体を神としているのであろう。樹齢1000年を越えているであろう事から、やはりこの大樟も神社建立以前から、何らかの形でこの地域の人々は、この大樟を神体木として祀ってきたに違いない。
「葛見神社の大樟」 国指定天然記念物
樹高 20メートル 幹周り 15メートル 推定樹齢 1000年以上
所在地 静岡県伊東市馬場町1?16 葛見神社
「巨樹探訪」熱中人
* 全国の伊東氏のルーツは、藤原南家為憲を始祖とする工藤一族の工藤祐高(隆)が伊東に入り伊東姓を名乗ったことに始まるという。(仇討ちで有名な曾我兄弟も工藤氏の一族)
伊東氏は、伊東庄、河津庄、宇佐美庄を支配する伊豆東海岸の豪族となり、後に九州・日向国に地頭として移り、戦国期には隣国薩摩の島津氏との戦いをくぐりぬけ、江戸期には飫肥藩(宮崎県日南市)5万1000石の大名として明治維新に至る。
吾等が同期の伊東平隆氏もこの伊東一族の末裔かも?と思っている次第だが如何?