森山1丁目からの通園でよく登園拒否をおこし母におんぶして連れていかれた。
友とじゃれあって飛び込んだのが、ピアノを弾く女の先生のスカートの下だったこともある。
足の悪い子が、イエス様によって一家が幸せになる劇の主役をやったが、むつかしかった。
皆で交番へ花を持っていき「おまわりさん!ありがとう」と言った。
卒園後5年間、日曜学校へ通った。
数十年東京で働き、金沢へ帰ったら当時の石風呂先生が寺町でお元気だと聞き、明るいニユースだった。
勤めていた女子行員の多い以前の職場には、託児所が各工場にあったが、幼稚園とは子供中心の名で託児所は見守る大人の立場の名であろう。都内で高校同期会があり、相手と私は馬場幼稚園だったと話が進み、私はさくら組相手はうめ組までにおよんだ。
私達の頃は通う子供もごく少なく、今、街に多くの送迎バスが走るのを見て、変わったなあと思う。その頃実に大きくみえた園の建物が、こじんまり見えるのは自分が大きくなったからか。
その頃の一年間は実に永かったが、今60歳を過ぎ一年はアッと言うまに過ぎる。これは5歳の一年は五分の一、60歳の一年は六十分の一と充実度が違うという説もある。
この時までは良かったが、長じて貧乏はするは、病いもするは、しかも両親、妹はこの世から去り、生きてるだけの凡人となりつつある。
そんなものさーーー人生に深い考えの人は言う。
幼き頃が一番楽しかったのは、他の方もそうではないだろうか!!
俺は半太だ!!!


コメントする