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「暇な時」 大ホテルの喫茶室で他人の会話を盗み聞く。

*金沢の哲学者達について
*精神科医の選び方について
*霞が関に増えた地方大キャリアについて
*芸能人、モノカキ屋の素顔について
など

ホテルとはよく行くので長時間でも許してくれる。その間ノンアルコールビール数本注文する。給仕の娘には100円程度のおもちゃをやって心付けしておく。

俺は半太だ!!!

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No.1

家康が薩摩藩を最大に恐れた所以
 
 島津家といえば薩摩、薩摩といえば明治維新と西郷隆盛が連想される。戦国時代に、勇猛果敢さで、その名を轟かせた薩摩兵。その兵士たちを縦横無尽に指揮し、九州を制覇した島津四兄弟。外様大名の雄として、徳川幕府も一目置いた薩摩藩は幕府を倒し明治維新を成し遂げる。その礎を築いた薩摩の太守・島津義弘は、戦国大名・島津貴久の次男であった。豊臣秀吉の九州制覇の直後、長男の義久は出家・隠居を余儀なくされる。兄に代わって薩摩の太守となった次男の義弘は、武将・戦略家としても優れていたが、政治的な大局観と、屈従を拒む強烈な意志を併せ持っていた。家臣を大切にした彼を、家臣たちも強く慕い、彼の指揮の下、果敢に戦いへと身を投じた。大友宗麟との合戦(耳川の戦い)においては、義弘は6千対6万という圧倒的な戦力差をはね返し、薩摩島津の名を天下に轟かせた。義弘はまた、慶長の役の際には、味方の退却を援けるため、最後まで半島南端に留まり、勢いに乗って押し寄せる明の大軍を迎え撃ち、7千の兵で20万の明と朝鮮軍を徹底的に打ち破り、「石曼子」(シーマンズ)と恐れられた。

 島津義弘の名を不朽のものとしたのは関ヶ原での戦いである。島津家を引き込もうとする徳川家康と石田三成。当時、薩摩では内乱が鎮圧されたばかり、国力の建て直しを第一と考える兄・義久は薩摩の中立を維持しようとしていた。辺境の地にあって時代が見えない兄・義久は、自分より優れた弟・義弘への嫉妬もあり、増援軍の派兵をしないと言い張り、義弘の度重なる支援要請に応じようとはしなかった。弟・義弘は、わずかな兵と彼自身の判断を頼りに、この難局に対処しなくてはならなかった。
 猜疑心の強い家康、大局が見えず偏狭な石田三成、どちらについても決戦に勝利した方が薩摩の地に介入してくることになる。故郷のことを考えて義弘は東軍に味方することを決意、徳川軍の鳥居元忠は彼を疑い、伏見城への入城を拒絶する。しかたなく義弘は西軍に参陣する。しかし、前線で戦うには兵が足らない。薩摩を守るためには、島津の存在感を示す必要がある。彼の手元には8百の兵しかない。東西に数万もの大軍が結集する戦場で、あまりにも少な過ぎた。

 この時、前代未聞のことが起こった。平時は田畑を耕していた『衆中』と呼ばれる足軽から『地頭』と呼ばれる上級武士まで何百という兵士たちが一斉に上方へと走り出す。義弘を一途に慕う兵士たちは、義久や忠恒の命を無視して生国を飛び出し決戦場へと奔(はし)る。九州の南端・薩摩から、決戦場の関ヶ原まで、直線距離でも8百キロ以上、傍から見れば無謀以外の何ものでもない。彼らは、それを成し遂げる。「島津家中、上方へまかり通る」 後世に長く残った一言とともに、島津兵たちは山谷を走破し、関所を駆け抜け、北へ北へと走る。その数、実に千名以上。鎧櫃(よろいびつ)をかつぎ、槍を手にして、ひた走る彼らを、どこの関所も制止することはできない。「強悍島津を避けよ。手向かうことなかれ。彼らは物狂いに狂っている」 領地境の関所には、そのような命令が届いていた。

 激しい風雨、土砂を押し流す濁流、身も凍える夜の寒さ、そして耐え難いまでの飢え。しかし彼らは、畑で盗んだキュウリや大根を生のままかじり、溝の泥水を飲んで、よろめきつつも走り続けた。衣服は裂けちぎれ、物乞いにも等しい格好で走る彼らの噂は、人々の口から口へと伝わり、庶民の人気は爆発した。まさに、前代未聞の走り。あるじの危急に、雲煙万里の山坂を越えて奔る島津家中。人々は感動し、街道に並んで島津兵たちに食べ物や水を手渡す。沿道に住む人たちは、納屋を開放して休息所に提供し医師たちは傷ついた者たちを手当てする。暖かい味噌汁や握り飯が振舞われ、破れた衣服に着替えを差し出す者までいた。この報に接して、鹿児島城に衝撃が走る。こうして、義弘の軍勢は約1千6百にまで膨れ上がる。合戦に臨む形は出来上がる。島津を使い捨てるつもりの石田三成は、義弘の進言を全く受け入れようとしない。三成は机上の軍略を至上とし、百戦錬磨の諸将の戦略をはねつける。軍を分散した石田三成は、家康軍と内応している小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りにも、毛利秀元らが動かないことも信じようとしない。氷雨の降る中、関ヶ原へと向かう。ここで島津義弘は決意を固める。西軍には加担しない、島津らしい戦いで、天下に武勇を示すと。

 午前8時頃から始まった天下分け目の戦いは、正午までの4時間、西軍の圧倒的な優勢で進んだ。本陣の右翼に陣取った薩摩の陣には、三成から出陣を促す使いが何度も訪れ、遂には三成本人がやって来る。義弘は頑として受け付けない。自分の狭い知識に溺れ、勝利の機会を投げ捨てた三成を、義弘は信じない。島津勢は、陣を出ることなく、沈黙を守り続ける。東軍が攻撃をかければ猛反撃を加え、西軍の兵が逃げ込んで来れば追い散らし、頑なに戦場の中で立ち続ける島津兵。家康は不気味なものを感じ、配下の諸将に厳命を下す。
 「島津を攻撃してはならぬ」 そうして島津軍は、攻めず、侵す者のみを退け、最後の時を迎えた。

 正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りに始まった内応の連鎖は、わずか1時間で西軍を総崩れに追い込む。午後2時過ぎには西軍は完全に壊乱し勝敗は決した。東軍の圧勝だった。その中で、ただ島津軍だけが、なおも整然と佇んでいる。その数、およそ6百。一体彼らは、どうするつもりなのか。降伏か、退却か。10分、20分。東軍の諸将は、固唾を呑んで、その去就を見守る。そして、30分。義弘の号令一下、島津軍は怒涛のように動き出す。 「我らが国許へ引き揚げるのは、敵に背を向けて逃げるのでは無い。逃げては、この敵の中、生きて通れる訳は無い。我らはこの引き揚げで、世に比類無き薩摩の武勇を示す。その働きで薩摩が救われる。その方ら、みごとに薩摩男子の生きよう死に様を天下に示してくれ」 義弘の、最後の訓示であった。今も歴史に残る、壮絶な退却戦が始まった。
 迎え撃つ、3万の東軍。家康の本陣は、その一番奥まった所にある。その本陣を目がけて、鋒矢(ほうし)の陣形を取り、6百の島津軍は進軍を開始。正確な射撃と同時に、突撃する騎兵と槍兵。すさまじい彼らの攻撃に、東軍の、福島正之、井伊直政、本多忠勝らの軍勢は総崩れとなり四散する。精強無比の本軍を撃破されて、顔色を失う徳川家康。大軍の中を突き進んで来る島津兵たちの顔は彼には魔神の如く見えた。

 家康の生涯に死を覚悟した時が3度あると言われる。1度目は、武田信玄に三方が原で大敗を喫した時。2度目が、薩摩軍であった。3度目は、この後の大阪夏の陣で真田幸村に追い詰められた時である。さて、2度目の薩摩軍に戻るが、3万の東軍を突破して家康の前に現われた島津軍、その距離は一丁(120メートル)ほどであった。恐怖に顔を引きつらせ、家康は床机から突っ立ったまま、固まったように目を見開いていた。義弘が兵士たちに命ずれば、家康の命は無かったかもしれない。だが、義弘は、そうしなかった。家康以外に天下を統一できる人物はいないと知っていた。戦国時代を戦い抜き、九州制覇、秀吉の島津征伐、文禄の役、慶長の役と、40年以上にわたって戦い続けてきた彼は、平和の尊さを、誰よりも良く知っていた。島津軍は、家康の眼前で転回し、一路牧田街道烏頭坂へと向かった。
 『あの者を生きたまま帰せば、島津は取れん』 気を取り直した家康は追撃を命じる。藤堂勢が、京極勢が、さらに家康の旗本である本多忠勝と井伊直政が攻撃をかける中、島津軍は決死の退却に移る。藤堂勢と京極勢を蹴散らし、『ステガマリ』と言われる決死隊を退路に配置しての強行突破だった。関ヶ原から甲賀を経て、信楽、摂津住吉へ。用意された船に乗って、大阪から無事に船出した時、6百名の兵士は、わずか80名に減っていた。甥の豊久も、忠実な老臣である長寿院盛淳も、この戦いで壮絶な最期を遂げた。しかし彼らは、身を挺して、義弘を守り通した。この凄まじい退却戦は、家康の心に畏怖を植えつけた。「島津、恐るべし」わずか6百の軍勢で精強を誇った東軍3万を打ち破る、その卓越した戦闘力と闘争心。それでいて、薩摩には島津本軍3万(日本最大の藩軍)が温存されていた。

 義弘が徹底抗戦した時の恐れが家康の島津に対する戦後処理を腰砕けにさせた。西軍に加わって戦った大名は、取り潰しや減封の憂き目に遭ったにも関わらず、島津家のみは全く領地を失わなかった。これは異例中の異例である。島津義弘が求めたものは、降伏条件の駆け引きではなく対等の和睦交渉であった。そして家康は、この条件を呑む。薩摩・大隈は勿論、豊久の旧領であった日向佐土原2万8千6百石までが島津家に還付された。こうして、勢力を削がれることなく薩摩島津は残る。領民の命と暮らしは守られ、幕府や他の大名による統治下で過酷な年貢を課されることもなかった。生き残った兵士たちは、郷土の青年たちに戦のことを語り、薩摩隼人の誇りを伝えていく。激戦の中に斃れていった同胞たちのことを思う時、ともすれば兵士の声は途切れ、涙はあふれ出て止まらない。青年たちは、その感動と誇りを胸に成長し、義弘の信念を受け継いだ。そして260年後、その子孫たちは、錦の御旗を掲げて徳川軍を打ち破り、明治維新をもたらす。

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