「神社を巡っていると、日本の古代史の一端、裏話を窺い知ることができる」と以前に言った事がありますが、古代史のみならず、中世・戦国時代の歴史上の人物にも遭遇できる楽しみがあります。
先日、岐阜県揖斐川町の、結構山奥へ入り込んだ中山(旧春日村中山)という集落にある観音寺、六社神社を訪ねた時です。偶々出会った地元のおばあさんと話をしていたら、観音寺、六社神社と並んで小西神社もあるという。そして、「小西神社もお参りして下さいな」と。
先ず、長い急な石段を登り、観音寺へ。十一面千手観音菩薩を本尊とする曹洞宗の寺です。その由緒書きの中に、「関が原合戦に敗れ逃れ来た西軍の将、小西行長がこの寺に隠れたが、竹中重門(秀吉の軍師 竹中半兵衛の子)に依って捕らえられる」とありました。
小西神社は、そんな小西行長がその後京都において処刑された後、行長をこの寺に匿った中山の人達が行長を祀った社であろうと私は思った。寺の隣にある六社神社から細い山道を山に沿って少し歩いたところに小さな祠があった。祠の前には、小西神社と記した旗が、祠の後ろには、「泰珠院殿東岸道西大居士」「慶長5年庚子10月1日卒」と刻み込まれた石柱がありました。集落の人からは、観音寺や六社神社と共に大切にされている様子が窺われた。
小西神社の創建、由来を記したものは何も無かったが、帰宅してから詳しく調べてみると、当初建てたのは墓だったという。墓を作りその後神社にした経緯は、なかなか興味深いものだった。
関が原合戦後に伊吹山方面に逃れた行長は春日村中山まで逃れてきて、その土地の人に匿ってもらう。しかし、東軍の追及を恐れた近くの村の村人が、東軍でもあり、この地を領有していた竹中丹後守重門に密告。中山の村人に騙されたと思い込んだ行長が「私を裏切ったあの村を3度焼き払ってくれようぞ!」と呪いの言葉を吐いたそうだ。
その後、村では度々火災が起こるようになり、これを「小西様の祟り」と恐れた村人は、行長の残した小刀を埋めて墓を作り、寺には位牌を祀る様になった。
しかし、1923年に村へ立ち寄った僧が「私の所へ、小西行長公の霊が現れ、<中山が私を仏として扱うのは不快なり>と申された。今後は、神として祀るように」と言ったので、早速行長の墓所に社を立てて神として祀るようになったという。この社が小西神社であるという、意外と最近の話なのだ。
また、同じ西濃地区、垂井町にある禅憧寺という寺(竹中半兵衛の菩提寺)にも小西行長の墓があるという。機会があれば一度ここへも行ってみたいものだ。
「歴史散歩人」 白鬚の翁

