私は、城下町の武家屋敷地区や、懐かしい街道の宿場町、社寺の前に出来た門前町、蔵造りの商家町、緑に囲まれた萱葺き屋根の山村集落などの街並みや集落を散策するのが好きだ。そんな街並みや集落をゆっくり歩き回っていると、昔の古き日本の良さが感じられると共に、郷愁を誘われる。そして何故か心落ち着けるのだ。それは何故だろうか?
私は思うに、それらの町並みは、全体として調和が取れているからだと思う。家々の造り(屋根の形、向きなど含めて)大きさ、そして色が・・・・・、その町の景観が人の心を和ませるのだと。
昭和50年(1975)、文化財保護法の中に、個々の建物だけでなく、集落や町並みを周辺の環境と共に保護する制度・・・重要伝統的建造物群保護地区制度・・・ができた。現在、全国で85地区あるそうだ。
そのような制度の下で、歴史の息ずく町並を大いにPRして「町興し」に活かして一大観光地になっている町がある。中山道の妻後宿、奈良井宿や、白川郷の荻町などは、休日ともなれば押し寄せる観光客でものすごく賑わっている。
しかし、全ての保存地区が賑わっているかと言うとそうでもないようだ。時間に取り残されたように、昔ながらの古い佇まいが整然と立ち並び、昼日中道行く人がほとんど見られないような、本当にひっそりとした静けさが漂っている町もあるのだ。
先日、そんな町の一つ、三重県亀山市にある、東海道・関宿の町を歩いてきました。
関宿は、東海道五十三次の、江戸から数えて47番目の宿場町だ。古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃置かれた、越前の愛発(あらち)、美濃の不破、と共に三関の一つ「伊勢鈴鹿の関」でもあるのだ。
江戸時代、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐していたため、参勤交代、伊勢参りなどの交通の拠点として活気ある宿場町であった。
東海道の宿場町で唯一保存地区に指定されており、往時の面影を色濃く残している町並は、約1.8kmも続いているのだ。200軒もの古い町屋が軒を連ね、意匠的に華やかな町並、簡素で落ち着いた町並と変化に富み、なかなか見応えのある町並なのだ。電線が、地下に埋設されていることも、美しい景観を保つ要因になっている。
これだけ完璧に古い町並が保存されているのに、歩き回っている観光客が全くいないというのはどうしたことだろう。奈良井や妻籠の賑やかさとは、全く違った雰囲気なのだ。静寂そのものだった。
町を歩いていて気付いたことは、観光客を呼び寄せるような、いわゆる「土産物屋」がただの1軒もないことだ。あるのは、町の人が日常的に買い物をするための「八百屋」「酒屋」「魚屋」「肉 屋」「菓子屋」ぐらいなのだ。又、関宿のパンフレットもマップも置いてなく、案内板すら見られないのだ。
しかし、町中の家々は、新しい家も、昔の風情を壊すことなく融けこんでおり、銀行や郵便局も町並に合わせた造りになっている。歴史的な町屋には、それぞれ説明版が付けられており、それは開かれた博物館のようだった。
ひょっとすると、この町では、他所では当然のように行っている、いわゆる「町興し」なるものを嫌悪しているのかも。騒々しい観光客が町中を闊歩するのを好ましく思っていないのかも。
それにしても、不思議な町だ。なんだか「時代遅れの町」のようでもある。でも、住んでいる人達には、なんら不思議でもなく、普通だと思っているのかもしれない。他所者があれこれ言う必要はないのだ。町の裏側を通っている国道1号線は、行きかう車で大変活気があった。
余談ですが、よく「そこまでが、せいいっぱい」という意味で使われる「せきのやま(関の山)」というコトバは、この関宿で生まれたという。7月下旬二日間行われる、関神社の祭礼、夏祭りには、絢爛豪華な4台の山車(やま)・・・江戸時代には16台あった・・・が練り歩く。この祭りの山車が語源だそうだ。町内の街道をふさぎ、これ以上通るに通れない様子を表現したのだそうだ。
街道ウォークマン

