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越国、越中国の歴史 一覧

富山藩と富山県(富山県立図書館「十万石富山御領図」より作製)

左図の青線で囲われた部分が概ね越中国で、幕政時代の富山藩は赤線で囲まれた部分である。婦負郡と新川郡の一部が富山藩である。富山藩の石高は10万石であり、他は加賀藩だ。青線で囲まれた古代から越中国と呼ばれていた地域が、明治16年の廃藩置県でほぼ全域が富山県となった。

だから幕政時代の加賀百万石は現在の石川県だけではなく、富山県のほぼ全域も加賀藩だったわけだ。加賀藩の石高が石川県と富山県を合わせたものだったと考えれば、百万石というのも納得できる。

他県の人に富山県を語る時は、幕政時代の富山藩を富山県として語るのではなく、できるだけ古代からの越中国を富山県として語る方が分かりやすいと思う。幕政時代の加賀百万石に絡んで、石川県と富山県の話題になったら、富山県も加賀百万石の一部だったと説明すれば事足りる。

強いて石川県と富山県を対比するのであれば、加賀国、能登国、越中国の区分けで語る方が語りやすいし、聞いている人も理解しやすいのではないだろうか。

富山県が幕政時代の富山藩と誤解されている原因の一つに富山の売薬がある。富山藩は本家の加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために産業を奨励した。富山藩第2代藩主・前田正甫(まさとし)が薬に興味を持ち合薬の研究をし、富山では最も有名な合薬富山反魂丹(はんごんたん)が開発された。これが富山売薬の創業とされる。「越中富山の反魂丹」として全国に広がった。こういった呼称が越中国と富山藩は同じと誤認されることになったのではないだろうか。

もう一つ紛らわしいのが「越中守(えっちゅうのかみ)」という呼称である。九州の旧熊本藩主・細川家は細川越中守忠興(ただおき)など、代々「越中守」と名乗っている。細川家と富山(越中国)とのつながりはあるのかとの疑問が湧き、漠然としてスッキリとしていない人も多いのではないだろうか。そして他県の人に質問されても、口ごもる事が多いと思う。

結論は「繋がりはない」だ。「守(かみ)」は、もともとは奈良・平安時代の法律である律令格式で定められた制度(律令制)のもとでの官位の呼称である。

徳川家康が江戸幕府を開いた時に武士を統制するのに官位を利用した。18世紀になると全ての大名が武家官位を授けられるようになった。

宝永6年3月7日(1709年4月16日)に将軍徳川家宣(いえのぶ)は「今より万石以下の人々、みな叙爵(じょしゃく)あるべし」と宣言(『徳川実紀』(『文昭院殿御実紀』巻1))して官位のなかった27名の大名が一斉に叙爵されて以後、全ての大名が家督継承時(家格によってはそれ以前の段階)に武家官位が授けられることになったのである。これにより名目上となった武家の家格は余り重要視されなくなる。

武家官位について、YAHOO! JAPAN 知恵袋に分かりやすい解説があったので転載した。

【○○(国名)+守、介】などは、もともとは律令制で定めれた国司の官名ですね。

国司とは朝廷から各国に派遣される、今で言う知事にあたり、守(かみ)はその長官、介(すけ)は次官にあたります。
ちなみに三等官を掾(じょう)、四等官が目(さかん)と言い、朝廷では役所によって字は異なるものの、すべて「かみ・すけ・じょう・さかん」の順になっています。
ちなみに軍事部門では「かみ・すけ・じょう・さかん」を「将・佐・尉・曹」と書いたので、明治期以降の軍隊でもこの字に大中少をつけて階級の呼称にしたんですね。

さて、国司は始めのうちは天皇から任命されて任地に赴いて政治を行っていましたが、時代が下るにつれて任地へ行かなくなったり(遙任)し、だんだんと有名無実化します。
やがて、武士が権力を握るようになってくると国司の地位はまったく意味をなさなくなってしまい、名目上の地位だけになってしまします。

そのうち、武士がその国の支配権を確立すると、「自分は武力だけで支配しているのではなく、きちんとしたお墨付きをもらっている」という名目をほしがるようになります。
徳川家康が三河地方の豪族を統率し、三河国の支配権を確立した際には朝廷に申請して三河守の官位をもらっています。

やがて、この官位はさらに名目上だけのものになっていき、もはや国名はまったく関係なくなってしまいます。
ある程度の地位へ上った武将に与えられる「武家官位」と呼ばれるようになり、主君が功績のあった家臣や、伝統ある家の者に与えるようになっていきます
織田信長は上総介、羽柴秀吉は筑前守、明智光秀は日向守などの官位を名乗っていますが、領地とはまったく関係ありませんね。
この頃は、形式上は朝廷に献金とともに申請して認めてもらってはいるものの、勝手に名乗るものなども大勢いました。
ちなみに、上総国、常陸国、上野国の3国だけは親王任国と言って、天皇の皇子が名目上の守になることになっており、介が長官でした。
織田上総介や吉良上野介はこのパターンです。

さて、江戸時代になると、幕府は禁中並公家諸法度を制定して武家の官位を朝廷の官位から切り離して、ごちゃごちゃになっていた官名(武家名乗り)を整理します。
こうして、江戸期以降は本人が申請して名乗るようになり、国の名前とはまったく関係なくなってしまいます。
同じ伊豆守でも何人もいたりしますし、そもそも、領地が細分化されてその国を丸ごと実際に支配している大名が外様大名以外にはいなくなってしまいます。
また、大名ではなく旗本であっても申請が認められると名乗ることができます。

それでも一定のルールはあり

・そのときの大老や老中と同じものは名乗らない
・朝廷のある山城国、幕府のある武蔵国の守は名乗らない
・常陸介は紀州徳川家初代の官名だったので名乗らない
・筑前守は、実際に筑前国を丸ごと領地にしている黒田家と秀吉から「羽柴筑前守」の称号をもらった加賀前田家以外は名乗らない
・薩摩守・大隈守は島津家、陸奥守は伊達家、土佐守は山内家がその国を実際に領地にしているので他の大名は名乗らない
・三河守・越後守は2代将軍秀忠の兄の家系である美作松平家が名乗っているので他の者は使わない
・尾張守は、主君を裏切り不幸な末路を辿った陶隆房や松田憲秀が名乗っていたので使わない
などの暗黙のルールができました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1013988425
YAHOO! JAPAN 知恵袋から転載


6日に義母が亡くなったことは、新聞にも載せず近所や町内にも知らせず、親戚にだけに知らせた。亡くなった義母は90歳だった。義母の兄弟といっても既に亡くなっていたり、寝たきりになっている。親戚も義理の従兄弟たちに代替わりしている。家族以外、通夜にお参りしてくれたのは二人。葬儀に会葬してくれたのは、富山、高岡、東京からかけつてくれた7人と小ぢんまりとした家族葬になった。

それでも、葬儀が終わってからの中陰での会食では、北陸新幹線の話から、金沢、富山、高岡の話題で盛り上がり、かなりの時間延長となってしまった。その時にうろ覚えの事も多く、あやあやにしか話せなかったことも多かった。申し訳ないと思った。それで、説明できなかったことを忘れないうちに調べてハッキリさせておこうと思い、備忘録としてこの記事を書いた。

今日は亡くなった義母の初七日だ。

金森

図は富山郷土博物館HPから引用

越国は現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域だ。この地域を古代では北陸道(ほくりくどう、あるいは、ほくろくどう)と呼ばれており、この北陸道の地域一帯を「越(高志)・こし」と呼んでいた。概ね、今でゆう「北陸地方」に位置する地域だ。

やがて北陸道は西暦600年代末に、越前、越中、越後の三つの地域に分割される。

図は富山郷土博物館HPから引用

その後、この三つの地域は、若狭国、越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国、佐渡国に分かれる。なお、越中国(えっちゅうのくに)は越後国や能登国の一部が含まれることもあったが、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)にその範囲が確定した。

越国の推移.jpg

図は松川遊覧船HPから引用

越中国の遍歴

(1) 7世紀末: 越国を三分割

(2) 天平13年(741年)
能登地方が越中に編入された。

(3) 天平宝宇元年(757年):

越中国から能登地方が分かれる。(現在の富山県の県境と同じとなる)

(4) 寛永16年(1639年):
加賀藩から富山藩10万石が分立。明治4年(1871)7月14日、廃藩置県により富山藩が富山県となる。

(5) 明治4年(1871年)11月20日:
新川県が設置され、県庁が魚津に置かれる。

(6) 明治5年(1872年)9月27日:
射水郡が新川県に編入され、県庁が富山に移る。

(7) 明治9年(1876年)4月18日:
新川県が石川県に編入される。

(8) 明治16年(1883年):
石川県から分離、現在の富山県となる。

いままで、江戸時代(幕政期)の越中の範囲は今の富山県と同じ位の大きさだったんだろうと漠然と考えていた。ところが、今の富山県の殆どが加賀藩であり婦負郡辺りの狭い範囲が富山藩だったことに驚いた。また明治の一時期、石川県は富山県を含んだ大きな県だったこともあった。なぜ、石川県と富山県に分割したのだろうか。その経緯に興味が湧いてきた。

金森

先日の記事「能登国一宮 気多大社を書くのに越中国(富山県)の神社についてついても調べた。その中で「能登は越中国の一部だったとがあり、気多大社が越中国の一宮だった」「今では射水・気多・高瀬・雄山の4社ともが「越中国一宮」とされている」ことを知った。

雄山神社については、このブログでも昨年(2014)9月に「雄山神社・芦峅寺」で紹介した。

実は砺波の高瀬神社には2011年秋に訪れた折に撮った写真を動画にしてYouTubeにアップしていた。

高瀬神社は、御祭神は「大己貴命(大国主命)」を主祭神に「天活玉命」「五十猛命」を祀り、末社三社と砺波地区の村々里々に鎮座されます氏子の神々と越中国延喜式内社三十三座の神々を奉斎したお社。(高瀬神社のHPから引用)

金森

能登半島の付け根辺り羽咋に気多大社がある。

気多大社にお参りしていると、スピーカーから「気多大社は越中の一宮でした。」という案内が流れていた。越中と言えば富山県のことだ。

能登国一宮 気多大社 能登羽咋
能登国一宮 気多大社 能登羽咋

以前、「なぜ、越前と越中の間に加賀があるのか」を調べ、このブログでも記事を書いたことがある。(越前と越中の間になぜ「越」が付かない加賀があるのか 参照)

このとき、越国が分かれて「越前、越中、越後」となり、越前が大きすぎるので、越前と加賀に分割されたことを知った。能登もこういった歴史の中で越中の一部だったことがあるのではないかと思い、帰ってから調べてみた。

能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社であったが、能登国を分立する際に二宮であった射水神社が越中国一宮とされた。白山比咩神社の社伝『白山記』には、「二神(射水神社)が元々の一宮であったが、新気多(気多神社)に一宮を取られた」とあり、気多大社から分祀して国府の近くに新たに創建された気多神社(新気多)が力をつけ、二上と新気多とが勢力争いをした結果、新気多が勝って一宮を名乗るようになったということになる。延喜式の写本における名神大社の異同もこの勢力争いの結果によるものとみられる。ただし、気多神社は新しく作られた神社ということで、名神大社でありながら射水郡の最後に書かれている。

後に気多神社の社勢が衰え、また、平安時代末の一時、国府が礪波郡に移された関係から、礪波郡の高瀬神社(南砺市高瀬)が一宮を名乗るようになった。一宮について各国一社のみを記す書籍では、越中国の一宮は高瀬神社と記しているものが多いが、だからと言って高瀬神社のみが一宮であるということでもない。江戸時代に全国の一宮を巡拝した橘三喜は、「越中の一宮は礪波郡にあるらしいが、それらしき社は見えず」とし、射水と気多にのみ参って高瀬には参っていない。

中世に書かれた『神道集』では、越中一宮は立山権現(雄山神社(立山町))であると記されている。これは中世以降の立山信仰の普及に伴い、その中心地である立山権現が一宮とみなされたものとみられる。

現在では射水・気多・高瀬・雄山の4社ともが「越中国一宮」とされるが、射水神社・雄山神社は一宮の称を積極的には使用していない。(ウィキペディア越中国から引用)

氣が集まる入らずの森(原生林)  気多大社 能登羽咋
氣が集まる入らずの森(原生林)  気多大社

能登の人の気質や味付けなど、どことなく富山(特に高岡)に似ていると感じることがある。こうみてみるとなんとなく納得できる。

金森

この前、太田くんに会ったときに、「越前と越中の間になぜ「越」が付かない加賀があるのか」との宿題をもらった。

令制国(りょうせいこく)の一つに越国(こしのくに)がある。越国は現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域だ。

では令制国は何時出来たのか。話は養老4年(720年)に完成した日本書紀に遡る。

ハッキリとは分かっていなが、『日本書紀』に信をおけば、大化の改新直後、少なくとも藤原京への遷都以前にはある程度の令制国が成立していたようである。

また、令制国以前は土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。令制国は、中央から派遣された国司が治める国である。

当時は高志(こし)国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方である。後に分割されて越後国・越中国・能登国・加賀国・越前国になり、越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)などの地方名で呼ばれた。蛇足だが、富山に高志会館、高志の国文学館というのがあるが、高志国との関連から名付けられているのかも知れない。

ウィキペディアによれば

加賀国は、令制国の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の紀末成による。末成は、加賀郡が国府から遠く往還に不便で、郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散し、国司の巡検も難しいといったことを理由にあげた。太政官はこれを受けて弘仁14年 (823年) 2月に、越前の二郡を割いて加賀国を建て、中国にすることを奏した。3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。同年6月4日に、江沼郡の北部を能美郡とし、加賀郡の南部を石川郡とすることを、加賀守を兼任した紀末成が言上し、これによって四郡になった。天長2年(825年)1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、加賀国は上国に変更になった。

注: 紀 末成(き の すえなり、天応元年(781年) - 天長2年12月4日(826年1月15日))は、平安時代前期の貴族。大納言・紀古佐美の九男。子に安麻呂・安根がいる。官位は従四位上・越前守、贈正四位上。

とのことである。

「加賀はもともとは越前だったが広すぎで統治しずらいので、平安時代に越前を分割して加賀にした。」というのが、「越前と越中の間になぜ「越」が付かない加賀があるのか」の答えということになる。ちなみに「越」の呼び方が、いつの頃から「こし」から「えつ」に変わったかは調べていない。江戸時代からのような気がしている。

金森

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