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『洛北八瀬奇譚』(四)


◆その弐・思い込み

 まことに恥ずかしい話なのですが、お聞きくださいませ。私、山陰のある県立高校で教頭をいたしております。私の勤めていた高校は県の中でも名門校でして、その高校の校長に私をとの話が教育委員会から内々にあり、嬉々として毎日を送っておりました。そんな矢先のことでした。洋子から突然に電話が掛かってきたのです…。まったく悔やんでも悔やみ切れません。それでは順追ってお話することにいたしましょう。
 もう二十年ほど前になりますが、私はこの八瀬から山一つ越えた岩倉の高校で教員をいたしておりました。故郷の高校から京都の大学に進み、卒業後もそのまま京都に残って教職に就き、二年後には大学の後輩の妙子と結婚して、あの事が起こるまで穏やかな日々を過ごしておりました。ただ不満と言えば、結婚して十年にもなるのに子がいないことぐらいでした。そんなある日のことです。あの日も今日のようにシトシトと雨が降っておりました。
 あの日、いつものように清掃の点検を終え、人気のない職員室に戻りますと、机上にクラス日誌が置いてありました。当時、私は普通科二年のクラス担任をしておりました。
 椅子に座って何気なくその日誌を開きますと、感想欄に、いかにも女子高生らしい丸まった文字で走り書きがしてありました。その文字に目が止まると、思わずドキリとして声を上げそうになりました。そこには『先生が可哀相。私が先生の愛人になって、先生の子を産んであげる』と書いてあったのです。
 その頃、私は妙子との長年の不妊治療がうまくいかず、子どもを半ば諦めておりました。それとともに、治療の失敗から妙子との間もギクシャクとして、日々、満たされぬ気持ちのままモヤモヤとしていました。そんな時ですから、若い女の子から『愛人になってあげる。子を産んであげる』などと言われると過剰に反応して取り乱してしまったのです。率直に申しまして、溜りに溜まった欲求不満の我が身へ、若い女の子が進んで体を投げ出してきたようで思わず食指が動いてしまったのです。教職の身でありながら誠に恥ずかしいことです。
 しかし、よくよく考えますと、この種の日誌に生徒がそのような事を本気で書くはずがないわけで、そう思うと、今度は三十四歳の大の男が十七歳の小娘にからかわれたようで、やたらと腹が立ってきました。そこで、校内放送で日誌当番を呼びつけて叱ろうと思い、勢いよく席を立ったのですが、直ぐに思い直して座り直しました。と言うのも、職業柄、思春期の女子高生が性的な言葉を若い男性教師にわざと言って教師をからかうのは学校では時たまあることで、これもその種の悪ふざけだと思ったからです。むしろ、このような悪ふざけに引っ掛かる教師の方にこそ問題があるのだと言い聞かせ、気持ちを静めようといたしました。そして、当番の戸田洋子のことを思い浮かべました。ですが、どうしても戸田がこのような悪ふざけをするような生徒には思えないのです。
 洋子は色白で整った顔立ちの大柄な生徒で、休み時間には、窓際で一人ぼんやりと空を見上げているか、本を読だりしている生徒でした。そのくせ、ホームルームなどでは歯に衣着せぬ言葉でズバリと意見を言ったり、思い立つと周りの思惑などは気にせずに突っ走るようなところもありました。ですが、概して静かで、クラスではあまり目立たない生徒でした。ただ印象に残っていることと言えば、新学期早々の個人面接の時に、私の問い掛けに目を伏せてポツリポツリと話す洋子の唇が妙に赤くてヌメヌメと濡れて肉感的だったことと、授業中に私を異様なほど熱心に見つめて、それが不思議だったことでした。今思い返せば、洋子の唇に見入った時にどうやら私の心に魔が忍び込んできたようでした。
 話を元に戻しますが、日誌を見ながら洋子のことを思い浮かべていると、突然、職員室の戸が開きました。そして、暗い廊下から洋子が顔を覗かせ、徐に私の傍らに寄り添ってきたのです。驚きました。ですが、教師である手前、生徒に余裕ある姿を見せねばと、わざと鷹揚に笑って洋子に話し掛けました。
「戸田さん、この日誌、びっくりしたよ。大人をからかってはいけないよ。もし本気にしたらどうするんだい」
と気さくに話し、その後は二人の軽い笑いでその場を終わらせようとしたのです。ですが、洋子は笑はないのです。押し黙ったまま私の顔を見つめ、あの濡れたような赤い唇を開き、
「本気なんです。先生のこと、好きなんです。先生に子どもを産んであげたいの…」
と言うと、身を翻して職員室から飛び出て行きました。私は唖然として洋子の後ろ姿を見つめながら大きな溜め息をつきました。そして、
《まただ。また生徒の疑似恋愛に付き合わされる…》
と煩わしくなりました。
 思春期の、恋に恋し始めた女子生徒が、身近な男性教師を恋の対象として恋愛の練習を始めるのも学校ではよくあることでした。私も独身の頃は女子生徒にその対象とされたものでした。その頃は私も若く、そのような女子生徒を一人の女性としてどのように扱えばよいのかと真剣に悩んだものです。ですが、悩んでいるうちに女子生徒の方がいち早く熱から冷め、素知らぬ顔で卒業していきました。そんなことが度重なるにつれ、そのことで真剣に悩むのが馬鹿馬鹿しくなり、女子生徒に言い寄られると煩わしさだけが増すようになりました。しかし、結婚して十年も経つと、さすがにその対象からも外され、多少の味気なさもありましたが、むしろ清々とした気分でいられました。それなのに洋子によって再びあの煩わしさが蘇るのかと思うとうんざりして、手に持っていた日誌を机の上にポイと投げつけました。
 すると、その煽りで机上の幾枚かの作文用紙が舞い立ち、その中の一枚を手に取ると、自殺について書いてありました。その作文は国語表現の授業の時に生徒に書かせた新聞の感想文でした。あの当時、高校生の間で自殺が連鎖反応的に続き、新聞紙上を騒がせていました。その作文もその事件の感想を書いたものだと思い、走り読みしていると、急に洋子の思い詰めたような顔を思い出しました。
《危ない、危ない。最近の高校生は思い詰めると何をするかわからない。自殺でもしたら大変だ。特に洋子のような子には気を付けなければ……。しばらくあの子を刺激しないようにしよう。好きなようにさせておこう…》
と、その時は思ったものです。ですが、それからが大変でした。洋子はこれまでの疑似恋愛の生徒とは違っていたのです。早熟と言えば早熟なのかもしれませんが、私に向ける全てが性的な興味に満ち溢れていて病的とさえ思えてきたのです。
 毎朝、私の机の上に古典の添削に装った洋子の日記が置いてありました。また、朝の連絡や授業でクラスに行くと、発情期の牝猫さながらの底光りのする粘っこい目で私を見つめているのです。その目付きと、日増しに過激になる日記の内容に私は困惑されました。洋子は内に秘めていた熱いドロドロした性的なものを一気に私に吐き出してきたのです。
 まったく女とは不思議なものです。男のように少年から徐々に大人の男へと成長していくのではなく、ある時期、突然に少女から大人の女性になるようで、その時期は人によって多少違うようですが、十七歳前後のように思われます。それは男には分からない女性の生理からくるものなのかもしれませんが、その年頃の女子生徒が一番身も心も不安定で危なっかしく、また、性的な関心も強いように思われます。ですが、洋子の場合、そんな一般的な変化ではなくて、どこかが狂っているのです。彼女の日記にはこんなことが毎日数頁にわたって書いてありました。〈先生に抱かれた夢を見た。先生に吸われた乳首が夢から覚めても熱く立っていた〉〈先生のこと想って一人で体の大事な処を触っていたら、そこが濡れてひどく疼いた。先生の舌と唇でこの疼きを鎮めて欲しい〉などと、矢継ぎ早に書いてきて、その頃、私自身も欲求不満気味でありましたから、その対応に困り果てて慌てふためいておりました。
 そんなことが数日続いた後、私は洋子を生徒相談室に呼んで彼女にその真意を聞いたのです。その時、洋子は私の質問に答えようともしなく、中学時代の自分のことばかりを話すのです。
「私、中学二年の夏休み、誰もいない昼の宿直室で日直だった体育の教師にやられたの。その時に何度も何度もやられたの。初めてだったの。すごいショック…。その人に先生は似ている…」
 中学の体育教師にレイプされたことも衝撃でしたが、それよりも話をしている時の洋子の様子がやはりおかしいのです。声は沈み、悲しげに話しているのですが、目を見ると、目の奥底がギラギラと光り、眼全体が熱を帯びて艶かしく潤んでいるのです。そして、肉厚の唇がヌメヌメと真っ赤に濡れてピクピクと蠢いているのです。やはりどこかが変なのです。狂っているのです。あまりにも早い時期の過激な性体験は心と体のバランスを壊し、それがトラウマとなって一生付き纏うと聞いていますが、洋子もその部類なのかもしれません。ともかく外見は少女なのですが、その目と唇は成熟しきった女なのです。そんな様子を見ていると、洋子は中学での事件を厭いながらも、体ではあの時と同じような交渉を求めていたのかもしれません。あのレイプした体育教師を私に重ねてです。とにかく私は困り果てました。洋子のあんな目と唇に日々追い回され、どうすればよいのかと、ほとほと困りました。とは言うものの、臆面もなく性の興味をぶつけてくる洋子に私はしだいに惹かれていきました。困ったことに私の情欲もメラメラと燃えだしたのです。
 それから数日が経ちました。放課後、長い会議を終えて、久しぶりに体育館裏のレスリング道場へ出かけました。当時、私はレスリング部の顧問をしていました。道場へ入ると、練習は既に終わっていましたが、二年生の土井だけが練習に使ったマットを雑巾で丁寧に拭いていました。土井は人一倍練習熱心な部員で、道場の清掃などもよくする極めて真面目な生徒でもありました。
「ご苦労さん。そのくらいでもういいよ。今度の試合は期待しているからな」
 土井の労をねぎらったのですが、土井の様子がどこか変なのです。
「はい、有難うございます。あの……」
 土井は言いたいことを口に出せなくてモジモジしているようでした。
「何だ、はっきり言えよ…」
 少し乱暴な口調で促しますと、土井はようやく怖ず怖ずと口を開きました。
「はい、実は、相談があるのですが……」
 その時、道場の入口の戸が急に開きました。

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