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富山の文学 一覧

大学の新入生コンパの帰り、初めての酒の酔いの胸苦しさに祇園・白川の巽橋の橋詰に(たたず)み、川風で顔の火照(ほて)りを冷ましていると、傍らの歌碑にふと目が止まった。

吉井勇の歌 京都祗園白川

「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」

吉井勇の歌だった。その瞬間、言いようのない喜びが込み上げてきた。京都で文学に打ち込めるという期待に満ちた喜びだった。

それから三十数年、八尾高校へ赴任となり、新任の挨拶で同窓会長宅の老舗旅館を訪れると、その門前の歌碑に目を奪われた。

「旅籠屋の古看板に吹雪して飛騨街道をゆくひともなし」

吉井の歌だった。

その時、私の胸中で京都の青春と八尾が直結し、八尾の町が輝いた。

挨拶を終え、しばらく歩くと、曳山展示館の前の歌碑に

「この町のとりわけひとり善人の秋路笛吹く月夜あかりに」

「吾もいつか越びとさびぬ雪の夜を八尾の衆と炉端酒酌む」

「山の町秋さびし町屋根の上に石のある町八尾よく見む」

これも吉井の歌だった。

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更に足を伸ばし、城山に登ると、

「君のする古陶かたり聴きてゐぬ越の旅籠に春を待ちつゝ」

そこにも吉野の歌碑があった。

八尾の町の至る所に吉井の気配がした。その時ようやく気が付いた。吉井は戦争末期の昭和20年2月から10月まで京都から八尾に疎開し、その間、宮田旅館、常松寺、小谷氏宅と転々と居を移していた。その8カ月間を詠んだのが歌集「寒行」の末尾と「流離抄」(共に昭和21年)だった。宮越の本法寺境内にも彼の

「古寺に大曼陀羅を見にゆきしおもひでひとつ残し秋来ぬ」

の歌碑があり、それ以来、吉井の歌碑を巡って人通りの少ない昼下がりの八尾の町を歩き回るのが私の日課となった。

 吉井勇は伯爵吉井幸蔵の次男として明治19年東京で生まれた。早稲田大学中退後、新詩社に入り、「明星」に短歌を発表し、明治41年には「パンの会」を結成する。翌年「スバル」の創刊に参加し、耽美派の中心として活躍したが、のち人間の悲哀をみつめる作風に転じた。芸術院会員。昭和35年死去。74歳。

伯爵を返上したといえ、華族育ちで京都での生活の長かった吉井が、都から追われるが如くに北陸の片田舎にやって来た。まして大雪の年だった。(みやび)に慣れた目には八尾はいかほど(ひな)に見えて寂しかったことだろう。

「大雪となりし高志路のしづけさは深深として切なかりけれ」

「雪はただしんしんと降るものを何に(くち)()み耐えてある身ぞ」

また、言葉に敏感な歌人にとって(ひな)の言葉はどれほど荒々しく聞こえたことだろう。

「耳につく高志の訛りの()み声もやうやく馴れて雪は深しも」

「蚤よりも人の心をむざと刺す寒き言葉をむしろにくまむ」

繊細な心は傷つき、昔の友を懐かしみ、酒を飲んでは孤独を癒すばかりだったのだろう。

「さむざむと夜半の寝酒飲み居れば炬燵の火さえいつか消えける」

「あわれなる流離のわれや(かけ)(わん)のにごり酒にも舌鼓打つ」

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流刑者の心情のようだ。後の「私の履歴書」に八尾で人情の酷薄さに悩まされたとの一文があるが、これは八尾の人々には(こく)だろう。戦争で人の心は(すさ)んでいたであろうが、彼は当時60歳、異郷で人に心を開くには余りにも老いて、その(かたく)な心で感じた八尾の印象だったのだろう。彼を慕って歌碑を多く建てた八尾の人々の情が酷薄であるはずがない。「寒行」の末尾や617首の「流離抄」を読むと、老いた歌人の寂しさがひしひしと伝わってくる。雪の降る寒い夜、彼の傍らに座り、言葉少なに酒を酌み交わし、彼の心を慰めたくなる思いがするのは私だけであろうか。

立野幸雄

四高生の日々 運命決定 「風の盆恋歌」通底する物語

高橋治.jpg 高橋治さん=2018年8月、金沢市内で

 「風の盆」になると三日間で二十五万人前後の見物客が八尾(富山市)を訪れる。この「おわら」ブームに火を点(つ)けたのが高橋治の『風の盆恋歌』である。

 この小説で八尾は全国に知られたが、高橋の金沢での回想を綴(つづ)った「金沢との出会い」(『花と心に囲まれて』所収)や「金沢の人々」(『人間ぱあてい』所収)などを読むと、八尾での物語の中に彼の金沢での逸話や金沢の街の風情が数多くちりばめられているのに気づく。八尾の街に流れるおわらの調べは「壁から謡が洩(も)れて来る」金沢の街の風情に通じ、二人の密会の家は高橋が下宿した金沢の家を髣髴(ほうふつ)とさせ、その家のくすんだ赤色の壁は金沢の情緒を漂わす。

 主人公は四高(旧制第四高等学校)の卒業生で、金沢の彼の下宿に居候した同級生は自殺し、後に彼は東京の大学に進学して堀麦水を卒業論文にするなど、高橋と主人公の経歴は重なる。そして、泉鏡花の小説が度々顔を出す。八尾の「風の盆」を小説の表舞台にしているが、根底には金沢での物語が息づいているようだ。

 高橋は昭和四(一九二九年)年千葉市に生まれ、地元の中学を卒業後、四高に入り、後に東大の国文科へ進む。人には生まれ育った故郷と、魂が目覚め、躍動して後々まで人生の糧となる心の故郷と言うべき地があるが、それが高橋には四高生として過ごした金沢なのだろう。

 四高生の彼は野球と映画に熱中し、特に映画にのめり込んだ。各大学高専映画愛好会の連合組織の会長として金沢市内のどの映画館も顔パスで入館していたという。この映画への没頭が後に彼を松竹に入社させ、映画人としての道を歩ませる。また、金沢での三年間の最初の一年半は学生寮で、後は味噌蔵町裏丁に下宿し、この下宿家のおばさんが『風の盆恋歌』の八尾の家の留守番・とめのモデルである。そして、退職した教授が卒業後二十年も司法試験を受け続けている教え子の謎を追うという筋立ての『名もなき道を』(昭和六十三年)に彼の四高時代の日々を描いている。

これをバックに来館記念に写真をどうぞ。四高記念館
四高記念館に展示されている四高生の写真 この前で記念写真が撮れるようになっている

 この小説執筆の動機は、昭和四十八(一九七三)年に外国留学歓送のクラス会が金沢で開かれた折、卒業後初めて恩師・慶松光雄教授に再会した感銘によるものだという。

 松竹入社後は小津安二郎監督等の助監督を経て松竹ヌーベルバーグを担う監督として活躍する。この間、脚本を書き、撮影、編集までも担当し、松竹退社後には戯曲も手掛け、故郷・千葉の海の汚染から環境、社会問題のノンフィクションも書く。これが機縁で大正期の日本のシベリア出兵を題材にした『派兵』を執筆する。『派兵』は高橋の初めての小説で、五年にわたり『朝日ジャーナル』に連載され、昭和五十二年に四十八歳の時に泉鏡花記念金沢市民文学賞を受賞する。この賞は高橋が作家として初めて認められた賞だった。心血注いだ大作だけに喜びもひとしおだろうが、作家としての自信も大いに得たに違いない。

 受賞に際し、高橋は「私の運命は金沢と結びついている」と述べた。受賞の喜びばかりでなく、「泉鏡花記念」の賞名にも感慨深いものがあったのだろう。彼が四高に志望したのは「鏡花の生まれた土地だった」からと『風の盆恋歌』の主人公に言わせ、「金沢との出会い」では鏡花と島田清次郎ゆかりの地だからと述べている。

 鏡花を特に好み、高橋家客室床の間には「雪洞をかさせは花の梢(こずえ)かな」の鏡花の俳句の軸が掛かっている。鏡花に魅せられて金沢に来て、そこでの青春が映画人としての道を歩ませ、今再び、金沢で鏡花ゆかりの文学賞で作家への道を確信する。金沢はまさに高橋の運命を決定する地だった。

 金沢美術工芸大の非常勤講師を六年間務める傍ら、次々と小説を発表して『秘伝』(昭和五十九年)で直木賞を受賞し、作家としての地位を確かなものにした。また、俳人(俳号・台水)でもあり、映画、演劇の手法を駆使した彼の文学世界はますます多彩な広がりを見せている。

立野幸雄

不思議設定に好都合?

 富山市の桜の名所・松川沿い磯部堤の一本榎(えのき)付近は、黒百合伝説ゆかりの早百合姫の怨念を今なお宿す地として恐れられている。この地を舞台に泉鏡花は『蛇くひ』と『鎧(よろい)』(大正十四年)を書いているが、『鎧』の前半部に、鏡花が富山に滞在した折の事として神通川の伝説と絡み合わせて奇妙な話を書いている。

 多くの女性に恋い慕われるのが男の夢の一つであろうが、それにも限度がある。女たちに恋い慕われている男に、恋い狂う女たちの生霊(いきりょう)が取り憑(つ)いて男の体内に入り込み、男を独占しようと競う。そのつど、男は全身に激痛が走り、七転八倒し、もだえ苦しむ。

 そこで男は神通川に濃い霞が立ち籠(こ)める日、山媛(やまひめ)(女神)が川を下ると聞いて、一本榎のある地に立ち、山媛の力で体内の生霊を追い払おうとするが、かえって山媛の怒りをかってむごい目にあう。女としての山媛の嫉妬か、早百合姫のたたりなのかは分からないが、鏡花は霊魂の存在を真顔で信じていたらしい。この『鎧』での男の苦しみの女性版というのが『星女郎』(明治四十一年)に見られる。

ブナ林が生い茂る倶利伽羅峠付近=ことし5月、富山県小矢部市内で
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 『星女郎』の舞台は越中と加賀の国境の倶利伽羅峠である。美しく妖(あや)しげな二人の女性が登場する。一人は峠の茶屋に幽閉されている女で、もう一人は茶屋の女を見舞う大家(たいけ)の人妻である。二人は女学校からの親友で、人妻には『鎧』の男と同様に、男たちの生霊に取り憑かれ、激痛で苦しんだ過去がある。異なるのは、親友の女が介抱すると激痛がやみ、その女が生霊の男たちの肖像を描いて画面上でそれらを殺すと、実際にその男たちも死ぬ。

 それを繰り返すうちに親友の女は肖像画で人を殺す喜びを覚え、それを危惧した生霊を駆除してもらった女は峠の茶屋に親友の女を閉じ込める。物語は、この妖女(ようじょ)たちがいる峠の茶店へ帰省途中に学生が訪れるところから始まる。鏡花が『星女郎』を執筆中に妻すずが入院、手術をして、動揺した彼が、妻の病状を『星女郎』の生霊に取り憑かれた女に投影したとも言われる。

 富山滞在中に『鎧』のモデルになった友人がいてそれに基づき『星女郎』が書かれ、後年に体験に近い『鎧』が発表されたのではないだろうか。奇妙なことに舞台は倶利伽羅峠なのに、茶店に近づくにつれて辺りは立山地獄の様相を帯びてくる。立山地獄伝説も巧みに絡ませているようだ。

 生霊の話は越中と越後の国境にもある。『湯女の魂』(明治三十三年)である。この話は『高野聖』発表の三カ月後に発表された。

 友人と深い仲になった湯女を訪ねて小川温泉を訪れた男が、山中の孤家で、深夜、湯女から抜き取った魂を奇怪な女から預かる。翌朝、男は帰京し、友人の元へ行くのだが、後に湯女が死んだ知らせが届く。舞台は小川温泉だが、小川は山中の寂しい一軒家の温泉なので、作品中のにぎやかな温泉は鏡花なじみの辰口鉱泉のようでもある。鏡花は越中の加賀、越後、飛騨の国境付近に妖女たちを住まわせ、越中の中央には黒百合伝説の早百合姫の怨念が息づいているように描き、「魔の結界」を越中に設けているが、鏡花はいったい富山にどのような印象を抱いていたのだろうか。

 鏡花が好んで読んだ『加越能三州奇談』には、越中の魔所として倶利伽羅峠や神通川が取り上げられ、小川温泉の山向かいは謡『山姥(やまんば)』の舞台で、能に詳しい鏡花は知っていたはずで、それに『絵本太閤記』などの草双紙も加えて、本で膨らませた不気味な印象で富山をとらえていたのだろうか。

 『蛇くひ』『黒百合』でも滞在経験のある富山市の地形をあえて東西南北を逆にしていて、越中を異次元の地として、奇怪な伝説等もいまだ罷(まか)り通る不可思議な土地と思っていたのかもしれない。

立野幸雄

小説「蛇くひ」 漱石に影響与えた?

泉鏡花
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 富山大橋の手前を神通川に沿って松川が流れている。その松川の堤(磯部)が富山市の桜の名所で、堤の道を少し歩くと、「一本榎(えのき)」がある。

 戦国武将佐々成政が側女の早百合姫と一族を殺し、姫の怨念を宿す黒百合で自滅した黒百合伝説発祥の地である。この地は泉鏡花の『蛇くひ』(明治三十一年)『鎧(よろい)』(大正十四年)の小説舞台でもある。

 十六歳の鏡花は明治二十二年六月に一人で富山を訪れ、三カ月余り滞在し、国文・英語の補習講座を開いた。その滞在中の体験を基に前記の作品と『黒百合』(明治三十二年)『星女郎(じょろう)』(明治四十一年)を書いたらしい。いずれも奇怪な物語で、富山に対して抱いた鏡花の印象が興味深い。

 『蛇くひ』は『両頭蛇(りょうとうだ)』が元の題名で、明治二十六年ごろに作られたとされており、鏡花の現存する作品の中では最も古い。

 神通川畔の成政の別邸跡の一本榎付近に異様な集団がたむろし、町に出掛けては数多の店先で物乞いをし、それを拒むと持参した蛇をかじっては吐き出して強請(ゆす)る。彼らは悪食を好み、特に蛇飯(蛇肉を混ぜた飯)を好む。やがて彼らの偉大な頭目が出現するとのうわさが流れ、町中恐れおののくという話である。この話は、鏡花が富山滞在中に神通川が氾濫して米価が上がり、怒った貧民が富家を襲ったのを題材にしたという。

松川の堤に立つ「一本榎」の案内板
=富山市磯部で
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 この話での「生きた蛇と米を釜に入れ、穴の開いた籠をかぶせて炊き、苦しくて頭を出す蛇を掴(つか)んで背骨を引き抜き、肉と米を煮て食べる」の蛇飯の場面が刺激的で、夏目漱石の『吾輩(わがはい)は猫である』(明治三十八年)の迷亭君が蛇飯を食べる場面に似ている。これは日頃より鏡花を意識していた漱石が『蛇くひ』から取り込んだのだろう。

 だが、江戸期の荻生徂徠(おぎゅうそらい)の随筆にも同様の話があり、鏡花の創作だとは言い切れない。また、鏡花愛読の『絵本太閤記』に、成政の早百合姫の虐殺、豊臣(羽柴)秀吉軍と神通川堤で対峙(たいじ)した成政軍に姫の怨念を宿す鬼の一群が来襲し、黒百合に関わって成政が自害した事なども書いてあり、一本榎にたむろして町を脅かす異様な集団は、この鬼達からヒントを得たのかもしれない。鏡花は黒百合伝説によほど関心があったのだろう。

 さらに黒百合伝説を題材にして三島由紀夫が浪漫主義の傑作と絶賛した『黒百合』がある。この作品では一本榎は街中にあり、富山市内の総曲輪、四十物町、旅籠町などが舞台になっている。

 花売り娘の雪は恋人・拓の目の治療費欲しさに知事令嬢の求める黒百合を魔所の岩瀧(いわたき)に採りに行く。その後を泥棒華族・滝太郎が追い、雪は彼と共に黒百合を手に入れるのだが、魔所の禁忌を破り、大洪水が生じて富山市は全滅し、雪も命を落とす。これも『蛇くひ』と同様に背後に神通川の氾濫がある。安政の大鳶崩れの土石流の襲来も重なっているようだ。岩瀧は上市町大岩以奥の立山を想定しているらしい。

 後に盗賊団の頭目になる滝太郎と拓は共に眼に特徴があり、『蛇くひ』で出現がうわさされる異様な集団の頭目も眼に特徴があって原題『両頭蛇』の「両頭」が両頭目としての滝太郎、拓を暗示しているようで興味深い。それに富山市円隆寺の「さんさい踊唄」が両作品の筋展開に重要な役割を果たしていて、両作品は別々のようだが、もともとは深くつながっていたのかもしれない。神通川畔の一本榎にたむろした異様な集団が特徴的な眼を持つ二人の頭目に率いられて大盗賊団になり、早百合姫の怨念が明治に蘇(よみがえ)り、成政ゆかりの富山市を全滅に導くと想像するのも面白い。

 鏡花は自らの富山体験と富山の口碑、伝説、民俗などから得たさまざまなものを絡み合わせて物語化している。それは次回に触れる『鎧』『星女郎』にも表れている。

立野幸雄

泉鏡花(一八七三?一九三九年)が富山を題材にした作品を研究している富山県射水市の大島絵本館の立野幸雄館長が、高志の国文学館(富山市舟橋南町)で十二月二十三日まで開かれている企画展「川の文学?うつりゆく富山の歴史の中で」に合わせて、本紙に寄稿した。『蛇くひ』『鎧』などの作品を二回にわたって紹介する。立野さんは「神通川の怪異?泉鏡花」と題して十二月十三日午後二時から高志の国文学館で講演する。参加無料だが、申し込みは必要。問い合わせ、申し込みは高志の国文学館=電076(431)5492=へ。

黒百合伝説 1584年に羽柴秀吉と対抗するため、徳川家康に援軍を求めて北アルプス越え(さらさら越え)をした佐々成政と、側室早百合の愛憎を伝える。家康を説得できず富山に戻った成政が、近習と不義したといううわさから、早百合を一族とともに一本榎の下で切ったと伝承されている。無実を訴え続けていた早百合は「立山に黒百合が咲くころに、あなたを滅ぼしましょう」と呪って息絶えたという。成政の後、富山を治めた前田氏が後年、広めたともいわれている。

 氷見・朝日山公園から見渡す日本海は洋々として、左手に能登半島、右手・海越しに立山連峰が望め、まさに絶景の一言に尽きる。桜や紅葉の折りの素晴らしさは筆舌に尽しがたいだろう。この南麓に真言宗の古刹・上日寺がある。大イチョウで有名だが、この寺には、ある人物の話が伝わっていて、それを短篇にまとめ、作家としてデビューした高名な女性小説家がいる。その伝説の人物とは面打・氷見宗忠で、小説家は杉本苑子、作品は『燐の譜』(昭和二六年)である。当時二六歳の杉本は、この作品で第四二回サンデー毎日大衆文芸賞に入選し、その選考委員だった吉川英治に師事し、順調に作家としての道を歩むことになる。後年、『孤愁の岸』(昭和四七年)で直木賞を受賞し、その後も多くの文学賞を受賞し、我が国の代表的な女性歴史小説家となった。

 彼女が主人公にした氷見宗忠とは「越中氷見村朝日山の観音堂に住んでいた僧侶で、つねに能面を打って観音に奉納していたといわれた。すべて痩せたる面を得意とした人で、老女、痩男、痩女、蛙などの作物では、もっとも古いばかりでなく、後世にその類を見ない名工である」(『能の話』野上豊一郎)という室町期の半ば伝説上の人物で、杉本は『燐の譜』で次のように描いた。

 狂気じみた仕事ぶりで面を打っていた宗忠は、ある日、面打ちに行き詰まり、全てを投げ捨てて京都から出奔する。越前で老僧と出会い、その縁で出家し、観音堂の堂守りとして越中氷見に赴く。観音堂で次第に安らぎを覚えてきたが、雪で御堂が埋もれると、激しい焦りに襲われるようになる。忘れたはずの面への執着だった。そこへ越前で忘れた面打ちの道具が届く。そんな折り、狩人の葬式に呼ばれ、その死顔に惹かれ、それを面に打とうと思い立つ。吹雪の夜、狩人の墓をあばき、死骸を盗み出して観音堂に運び、腐りゆく死骸を見ながら夢中で面を打ち続ける。面は完成し、宗忠はそれを持ち、一路京都へと向かう。だが、途中で力尽きて倒れ、知り合った旅人にその面を託す。面は旅人によって観世広元の手元に届き、「痩男」の面として能舞台に使われるようになる。

 この作品について杉本は「陰惨な一個の面は、それを打った人の性格から風貌、小さな吐息まで私達に雄弁に物語っている様な気がしてなりません。しかし、それを勝手な受け取りでこんな風に仕上げたのは、作者である私の無鉄砲な「若さ」のせいで冥界の宗忠はさぞ腹を立てている事であろう」と言っているが、この言からも、この作品は宗忠の事蹟を詳細に調べて書いたのではなくて、杉本の頭の中で創られたものだろう。そのせいか、ストーリー性に富んで各場面の描写は精緻ではあるが、人物の心の奥底にまで入り込んだ深みがなく、時代は中世ではあるが、平安の説話物語風で、宗忠の芸に対する狂気も、芥川龍之介『地獄変』の絵師・良秀の地獄図を描く為の偏狂振りや、谷崎潤一郎『少将滋幹の母』の腐乱死骸から悟りを開く摩訶止観の場面などが髣髴と思い浮かび、観念性の強い小説になっている。だが、小説を書いて二、三作目で弱冠二六歳の小説としては、後の重厚で円熟した作風へと大成していく才能の煌めきが十分に見出せる好作品である。この小説を読み終えた後、上日寺の観音堂の前に立つと、宗忠の面打つ音が久遠の昔から聞こえてくるかもしれない。そんな余韻を残す小説である。

jyonichiji.jpg上日寺の大イチョウ

立野幸雄

氷見駅

 キハ40系・忍者ハットリくんのラッピング車両一台が富山湾沿いにゆっくりと北西に進む。島尾の駅を過ぎ、車窓から浜辺の松林を眺め、海の雄大さに見とれていると、住宅地に入り、縦に細長いマンションの横で電車は停まった。氷見線の終着駅・氷見駅に着いた。

 ホームに降りると、吹く風に潮の香がする。爽やかな空気だ。だが、漁業と観光で脚光を浴び、人口約5万5千人の県内でも有数の市の表玄関の駅としては意外に小さい。駅舎はコンビニを2店舗合わせた規模の平屋で外観は淡いクリーム色に綺麗に塗装されている。ホームは、切り欠けホーム(2番線)を持つ1面2線なのだが、実際は改札側の1番線しか使われていなく、1面1線である。また、客車列車が運行されていた頃の名残なのか、終着駅に見られる機関車を付け替えるための機回し線が残っている。魚の積出し用の数本の側線も以前はあったらしいが現在はない。駅構内は、平日の昼下がりのせいか、乗り降りする人が少なく、閑散としている。

 委託の駅員が配置されている改札口を通り、駅舎に入る。出札窓口の横に観光案内所があり、真向かいに待合室がある。整然と椅子が並んでいるが、以前は売店があったらしい。現在は飲物の自販機と特産品の陳列棚があり、奥にも陳列窓がある。周辺の壁には氷見を舞台にした映画のポスターが何枚も貼られて、中を覗(のぞ)き込むと、映画「ほしのふるまち」(平成23年)の撮影の際に使われた衣装や小道具、サイン入りのパンプなどが展示されている。主演の中村蒼と山下リオの笑顔がまぶしい。

 駅前に出る。駐輪場や便所が傍らにあり、ローカル色の濃い、落ち着いた駅前風情が広がっている。駅横に小さな映画館がある。言い様のないノスタルジアを覚える。氷見は地元出身の藤子不二雄A氏の関係から漫画と縁が深いが、最近はロケ地の関係から映画との結び付きも深まっているようだ。氷見絆国際映画祭が毎年開催され、「ほしのふるまち」以外にも「赤い橋の下にぬるい水」「死にゆく妻との旅路」「万年筆」「夢売る二人」「命」「九転十起の男」、まだあるのだろうが、この地でロケした映画の幾つかが思い浮かぶ。氷見の風景は映画を愛する全国の人達の胸に深く刻み込まれているに違いない。

 駅前から415号線に出て、右にしばらく歩くと湊川の橋に着く。その橋の手前を川に沿って曲がると、忍者ハットリ君が現れる「からくり時計」がある。次に左に復興橋を渡り、郵便局を過ぎて少し歩くと藤子不二雄A氏の生家・光禅寺がある。復興橋を渡らず、そのまま川沿いを歩き、田町橋を渡って進むと大銀杏(いちょう)のある立派な寺が目に止まる。光照寺である。芥川賞作家の木崎さと子がこの寺をモデルに「沈める寺」を書き、芸術選奨新人賞を受賞した。寺の坊守の夫人、その息子の愛憎の煩悩(ぼんのう)を信仰と救いの問題を絡ませて描いている。ドビュッシーのピアノ曲で、フランスのブルターニュ地方に伝わるケルト伝説を基にした同名の曲がある。フランスに滞在経験のある木崎は、氷見を訪れてブルターニュ地方に似ていることから題名にしたと言う。氷見はフランスの海岸地方に似ているのだろう。だが、伝説では要(かなめ)の都市は水没するのだが...。そのまま朝日山へ進むと、我が国屈指の大銀杏(いちょう)で有名な上日寺がある。この寺を舞台に杉本苑子は「燐の譜」を書いて文壇にデビューした。氷見は野村尚吾「浮標灯」、横光利一「紋章」にも描かれている。

 文化の豊かな土地だ。潮風に乗って到来する新鮮な香を育んで豊潤な文化とし、氷見は発展してきたのだろう。

氷見駅は大正元年に開業。1日の平均乗車人員は800人前後。

himieki.jpg氷見駅

氷見魚港
氷見港

立野幸雄

城端駅

 山間(やまあい)の終着駅という言葉にはロマンが漂う。そこに祭りと華やかな文化の町が加われば旅情が募る。その想いに駆られ、城端駅へと向かう。駅に近づくにつれ、山々が迫り、やがて進行前面が高い塀のような山波に遮(さえぎ)られると電車は止まった。ホームに降り立ち、辺りを見回すと懐かしさに包まれた。昔に帰ったような、過去の一時点で止まったような木造瓦(かわら)葺(ぶ)きの小さな駅舎が目に入る。相対式ホーム2面2線なのだが、構内の境が駅舎側にあるだけで、レールは草の生える空き地で尽き、構内踏切で繋がる向かいのホーム裏は数本の桜の木と青々とした田が広がり、境界の代わりに赤や白、ピンクの大輪の芙蓉の花が咲き乱れている。レールは錆(さび)に塗(まみ)れ、枕木は朽ち、道床の砂利(じゃり)の間からは雑草が我が者顔に伸びている。構内は自然の為(な)すがままで素朴で飾り気がなく、駅は真夏の暑さの中で深い眠りに陥っているようだ。

 蝉の鳴き声に追われて駅舎に入る。その狭さに驚いたが、それが古めかしい造りと相まって心がひどく安らぐ。壁に曳山(ひきやま)祭、むぎや祭、五箇山等のポスターが貼られ、観光駅の一面も窺(うかが)われ、城端をモデルにしたアニメ『トゥルー・ティアーズ』の放映後に置かれたコミュニケーションノートもあり、城端の新しい顔を覗(のぞ)かせている。   

 駅前に出て駅舎を見る。風雪で屋根の棟(むね)が歪(ひず)み、色あせた柱や板材には亀裂が走り、力尽きて今にも倒れそうに見えながら、明治30年から変わらぬ姿を保ってきた凜(りん)とした気迫が宿っている。屋根の駅銘板も厳(いか)めしく、「越中の小京都」に似つかわしくて風格がある。平成14,年「第4回中部の駅百選」に認定されたが、さすがと感嘆する。

 駅前の高岡寄りに大駐輪場、反対側に離れて便所があり、真向かいの看板に「城端は機(はた)の声の町なり/寺々は本堂の扉を開き/聴聞の男女傘を連ね/市に立ちて甘藷(かんしょ)の苗売る者多し/麻の暖簾(のれん)京めきたり」と、民俗学者・柳田國男の紀行文の一節が書き留めてある。城端は絹と善徳寺の町だ。そして、裕福な絹問屋は贅(ぜい)を尽くして曳山祭を支援した。華麗豪華な曳山と庵(いおり)屋台。三味線の音色に粋な庵(いおり)唄(端唄)の唄声。曳山祭は目で見て耳で聞く祭りだという。ふと「忍ぶ恋路はさてはかなさよ/今度逢ふのが命がけ/よごす涙の白粉(おしろい)も/その顔かくす無理な酒」と、若い頃に好んだ端唄(はうた)が頭をよぎる。今も曳山祭で唄われている。すると、認知症の老人が引きこもりの青年に初恋の人を探してくれと頼み、その人を探しに城端に来た青年が事件に巻き込まれるという小杉健治の『もう一度会いたい』(平成19年)が頭に浮かんだ。小杉は、殺人事件の調査で城端に来た刑事が、その地で自らの出生の秘密を知るという『曳かれ者』(平成9年)も書いている。いずれも端唄が物語の要(かなめ)になっている。秋山ちえ子も嫁姑が労(いたわ)り合いながら曳山祭の夜に夫・息子を探し回る『二人静(ふたりしずか)』(昭和55年)を書いている。いずれも華やかな祭の影に潜む人の生の哀しみを切々と描いている。

 城端の文化は底知れぬほどに様々な物語を生み出す。

 観光客擦(す)れした京都より、小京都・城端は日本の真の文化を日々の生活の中で慎ましく伝えている。むぎや祭が間もなく始まる。その時、駅は再び息を吹き返し、優しい眼差(まなざ)しで多くの人達を迎えてくれるだろう。

 城端駅は明治30年開業。1日平均乗車人員は230人前後。駅前からは五箇山行きのバスが発着している。

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城端駅

善徳寺
城端別院善徳寺・南砺城端

立野幸雄

 信仰に極めて厚く徳行に富んでいる人を真宗門徒では妙好人と言う。だが、学問に秀でて教理を論ずるような人ではない。真宗の教えを体得し、それに生きた個性的な人のことを言う。妙好人たちの中でも南北朝時代の越中国上平村西赤尾の道宗は、信条の徹底さと行状の厳しさで知られ、今日に至るまで真宗門徒から尊敬をもって慕われている。この道宗をモデルにして岩倉政治が昭和19年に「行者道宗」を書き、昭和22年に加筆して書き改めた。

 「赤尾の道宗は、生涯を風変わりな行者でとほした男である。彼のことについては越中に伝説が残っている以外、あまり知る人はいない。ただ蓮如の「一代記聞書」といふものに三ケ所ほど「道宗」のことがみえ、それから拾塵記といふ文章にちょっと記されているぐらいである」。

 これが「行者道宗」の書き出しである。前・後編に分かれた中編小説で、前編では岩倉自らが五箇山の道宗開祖の行徳寺を訪れ、そこで行者となるまでの道宗の苦悩と葛藤の姿を、後編では師の蓮如との交流を軸として道宗関連の挿話を加え、彼の信仰の心得というべき「道宗心得二十一ケ条」を記載して道宗の信仰を描いている。

 挿話のほとんどは道宗の伝説で次のようなものである。道宗は武士の子で早い時期に両親を亡くした。親恋しさに筑紫の羅漢寺参詣途中の福井で、京へ行くようにとの夢のお告げがあり、それが機縁で蓮如の弟子になった。蓮如への傾倒が甚だしく、年に二・三度は五箇山から京の蓮如を尋ね、蓮如が井波の瑞泉寺逗留の折りには毎朝深雪の山奥から聴講に訪れた。寝る時には48本の割木を並べた上に身を横たえ、旅先では蕎麦ガラの上で横になったなどの奇行の数々である。

 だが、伝説のままではなく、脚色や創作したものもある。それらは仏教学者・岩見護の「赤尾の道宗」(昭和31年)と読み比べれば一目瞭然だが、むしろそこに岩倉の主張が込められている。創作したものに、道宗が南朝方の武士の出で彼の元へ南朝の勤皇武士が訪ねてきて議論する個所がある。この個所は昭和19年版と22年版とでは大きく異なっている。

 勤皇武士は国事に奔走しない道宗を仏教に逃避したと責める。それに対し、国事よりも弱者の庶民と共に仏に仕えることが大事と道宗は反発する。だが、19年版では最後に勤皇武士の私心のない天朝への志を理解して和解する。

 しかし、22年版では武士の志自体が私心だとし、詔(みことのり)を吹聴する者が国史を曇らし、国民を困苦にすると非難する。22年版の〈まえがき〉で「あの当時の軍と結び付いた右翼国粋主義の思い上がった横行にはがまんのならぬものがあった」と岩倉が述べているので、おそらく22年版で右翼を勤皇武士に擬(なぞら)えたのであろう。

 思想面で検挙された経験を持つ岩倉にとって戦時下の19年版では抑えざるを得なかったことを22年版で吐き出したに違いない。

 岩倉政治は明治36年東砺波郡高瀬村(現南砺市高瀬)生まれ。大谷大学哲学科で仏教を学ぶ一方、唯物論哲学に傾倒し、思想弾圧で二度検挙された。「稲熱病」(昭和19年)で芥川賞候補。他に「村長日記」(農民文学有馬賞)「螺(たにし)のうた」など多数の著作がある。平成12年に死去。享年97。

 禅の大家・鈴木大拙の「日本的霊性」(昭和19年)では妙好人として道宗と才市の二人を取り上げ、道宗は岩倉の紹介で知り得たとしている。鈴木と岩倉の親交の深さと鈴木の岩倉への信頼がよく分かる。「行者道宗」は岩倉が作家として油が乗りきった頃に書いた彼の伝記小説の力作である。

「行者道宗」岩倉政治((昭19年増進堂刊・22年百華苑刊)
「行者道宗」宗教作品集 岩倉政治(昭和54年法蔵館刊)
「赤尾の道宗」石見護 (昭和31年永田文昌堂刊)
「日本之霊性」鈴木大拙(昭和19年大東出版社)


行徳寺・越中五箇山

立野幸雄

 最近、城ブームで多くの愛好家が全国の城を巡り歩いている。戦国時代に城と呼ばれるものは狭義で3000余りあったが、元和元年(1615)の一国一城令で城郭が約170に減り、明治6年(1873)の廃城令で更にその3分の2が破却されたという。だが、それでも全国には多くの城があり、その中で富山城はどのような評価を得ているのかと疑問がわく。そんな疑問に歴史小説家の大御所・海音寺潮五郎が「日本名城伝」で答えてくれた。彼は全国から名城として12の城を選び、関連ある物語とともに紹介したが、その中に富山城がある。

 「日本名城伝」は元々「別冊週刊サンケイ」で海音寺が「日本の城」として月1城のわりで昭和35年1月号から12月号までに発表したものを翌36年に刊行(新潮社)したものである。取り上げられた城は、熊本城、高知城、姫路城、大阪城、岐阜城、名古屋城、小田原城、江戸城、会津若松城、仙台城、五稜郭で、どの城も日本史上に燦然(さんぜん)と輝く名城でそれらと肩を並べて富山城があるのは県人として嬉しく誇らしい気持ちに満たされる。  

 海音寺は明治34年鹿児島県生まれ。国学院大卒。昭和4年「うたかた草紙」が「サンデー毎日」大衆文芸賞に入選。11年「天正女合戦」「武道伝来記」で直木賞。「平将門」「天と地と」など歴史小説の分野で活躍。48年文化功労者。52年芸術院賞。昭和52年死去。享年76。

 彼は富山城を越後の長尾(上杉)氏に抗する越中勢や上方政権(織田・豊臣)の重要拠点として位置付けているが、富山城編では上杉家の内紛や後に城主となる佐々成政を中心に描いている。神通川の水を濠に引いて富山城を築いたのは神保(じんぼ)長職(ながもと)(氏春)で江戸期の富山城主は前田氏であるが、むしろ話の中心は佐々成政で彼にまつわる「さらさら越え」「早百合姫・黒百合」伝説などを紹介しながら、歴史の中に人を観る彼の史観で成政の人物像を厳しく批評している。松倉城(魚津)に立て籠った上杉勢に柴田勝家と成政は全員の命を保障に開城を勧め、それに城方が応じると、彼らの隙(すき)に乗じて全員を殺してしまう。このような不信義はこの時代に珍しくないとしながらも彼は「大成する人物はこんな時代でもこんなことはしていない。こういう小ずるさ、こういう残酷さ、これが勝家、成政の器量の小さいところで秀吉に功をさらわれたところといえよう。どんな時代でも人は不信義な人間や不誠実な人間をきらうのである」と言っている。また、海音寺は、富山城は大軍に包囲された時、八田瀬の堰(せき)と鼬(いたち)川とを締め切って人工洪水をおこし、城下を水没させて城を浮城にするように成政が設計したのだとも言っている。真偽のほどは定かではないが面白い見方である。彼が富山城に興味を抱いたのは「日本の城」連載と同年に「天と地と」(上杉謙信の生涯を描く)の連載を「週刊朝日」に始めたからであろう。越後上杉氏から見た越中の反抗拠点の城への関心が募ったに違いない。ちなみにこの連載は2年間も続き、本県を舞台にした箇所も多数ある。謙信の父為景の戦死に関わる栴檀野(砺波)や度重なる越中侵攻で神保・椎名氏、一向一揆衆、信長家臣団と戦った松倉城(魚津)などの越中での越後勢の戦いぶりが華々しく描かれている。富山城自体の構造等は「富山城探訪」(北日本新聞社新書)が分かり易いが、海音寺の「日本名城伝」の「富山城」と「天と地と」とで郷土の戦国時代後期の様相に思いを馳せるのも楽しいだろう。

富山城

立野幸雄

 その土地の文化が高く深いほど、その深みから奇妙なものが顔を出す時がある。文化が混ざり合い、混沌とした中で不意に形作られた異相の産物である。高岡は私にとってそんな雰囲気を宿す土地に思える。そんな思いを抱かせた二冊の本を紹介してみることにする。        

 高校生の頃、犀星の歌「夏の日に匹婦の腹にうまれけり」に出会い、花咲く野を歩いていて花の下から不意に蛇が顔を出したような衝撃を受けた。情細やかな詩人が自らの母を「匹婦」(いやしい女)と蔑んでいたからだった。後に犀星の出生の複雑さを知り、「匹婦」の言葉の裏に生母への強い思慕があるのに気付き、そこに犀星の秘密があるように感じた。その秘密を犀星の愛娘で彼の代表作「杏っ子」のモデルでもある室生朝子が『父犀星の秘密』(昭和55年毎日新聞社刊)として随筆にまとめた。

 犀星は明治22年に加賀藩の元足軽頭小畠弥左衛門吉種の私生児として生まれ、生後間もなく、近くの雨宝院に預けられて住職の内妻ハツに育てられた。このハツは気性が荒く、彼は不遇な少年時代を送るが、血の繋がらない同じ養女の姉テエの優しさで慰められる。そのことは『幼年時代』に詳しく描かれている。その義姉が伏木の玉川町(現・伏木中央町)の料亭に嫁いだので、犀星は成人後に義姉を慕って何度も伏木玉川町を訪れている。その時のことを二つの短編に描いた。姉の料亭を訪れた時に知り合った二人の美しい半玉(芸妓)との淡い交流を繊細な筆遣いで描いた「美しき氷河」(大正9年「中央公論」4月号)と、病気の夫を気遣う姉の様子をうかがい、姉の料亭に長逗留した日々を描いた「あら磯」(大正14年「中央公論」7月号)である。伏木はこのように犀星にとって縁の深い土地であったが、室生朝子は犀星にとって最も縁の深い土地は高岡だと言う。それは彼の生母の関係からである。

 犀星の生母は、新保千代子『室生犀星・ききがき抄』を根拠として、小畠家で当時女中をしていたハルが定説だった。当初、朝子もそれを信じていたが、弟の三回忌に金沢に帰った折りに犀星宛の古いハガキを手渡され、その時から事情が大きく変わる。そこから『父犀星の秘密』が書き始められる。随筆なのにミステリアルなルーツ探しのようで推理小説よりも面白く、胸が躍る。最初の「鯛の帯締め」の章で〈貴兄の母は山崎千賀〉のハガキ文面から朝子の祖母捜しが始まり、国会図書館の中島正之氏の援助を得て山崎千賀の足跡を追い、宮城県塩竃から再び金沢に戻り、千賀を犀星の生母と確信する。次の「高岡の遊亀戸」の章では、四年間、千賀が高岡瞽女町(現・川原町)の遊亀戸で芸妓に出ていたのを突き止め、高岡に赴き、千賀が借りた横田町の家で出産した可能性があるとし、この地が犀星の出生地と確信する。「世にも不思議な話」の章では、朝子が生母ハル説を唱えた新保千代子(当時・石川近代文学館長)と会い、ハル説の矛盾を問い詰め、確執に似た諍いを繰り返している。「夏ごとの蚊帳」の章では、犀星の養母ハツの隠された人柄を。「福王寺過去帳」の章では、養父真乗が富山県中老田村(富山市)の小川家の出だったと述べている。

 犀星の高岡での出生は文学史を書きかえる一大事で、この説について歌人の米田憲三氏が緻密な調査と取材で研究を進めておられ、今後の研究成果が期待される。だが、千賀実母説には金沢の父吉種と高岡の千賀とでは距離が離れ過ぎているとの反論があり、父親においても犀星は吉種64歳の時の子で父親が老い過ぎているのではと疑問視する者もいたが、この二つを同時に解決する新説が最近発表された。犀星研究家の安宅夏夫氏が「人物研究」第17号で発表した生種〈吉種の子〉実父・千賀生母説である。生種は高岡の作道小学校、下久津呂小学校で校長を務めた人物で、当時の高岡の社交の場「遊亀戸〈勇木楼〉」で芸妓の千賀と馴染みになり、千賀が子を宿して犀星が生まれ、世間体をはばかった吉種が犀星を金沢へ引き取り、我が子とした。犀星は祖父を父としたということになる。現職の校長と芸妓との間に子が生まれたとなると、現在でも昔でもスキャンダラスなことで、もしそれが事実なら、犀星に「高岡生まれの、校長と芸妓の子」との新たな秘密が加わり、犀星の「ふるさと」とは何処かの謎が深まるばかりで今後の展開が待たれる。

 さて、もう一つ奇妙なことがある。高岡市和田に西光寺という寺がある。明治32年頃、この寺に富山日報社主筆の佐藤紅緑(佐藤愛子、サトウ・ハチローの父)がしばしば宿泊した。当時、この地は日本派俳句の越中での結社・越友会の活動拠点で「和田俳人村」とも呼ばれていた。越友会の代表は山口花笠、会員で際立っていたのが沢田はぎだった。その句は国民新聞の高浜虚子や松根東洋城の選で最上級の讃辞を受け、名は中央にまで響いていた。その彼女の句が夫の代作したものとの噂が立ち、真偽がはっきりしないままに彼女は筆を折り、夫と共に俳壇から姿を消した。彗星の如く日本俳壇に現れ、早々と姿を消した。この幻の女流俳人に興味を抱いたのが吉屋信子だった。彼女はそれを「はぎ女事件」(「オール読物」昭和40年2月号・『私の見た美人たち』読売新聞社刊に収録)としてまとめた。その内容は次のようなものだった。

 東洋城が評価したようにはぎ女の俳句の実力は相当高いものだったが、彼女の句が夫の代作だとの噂が立つと、それ以来、はぎ女と夫は国民新聞への投句を止めた。時を経て昭和27年に室積伹春が山口花笠から聞いた話として「夫の代作説」を「俳句研究」6月号に発表した。それ以来、それが事実として広く信じられるようになったが、昭和32年に俳人の池上不二子が疑問を抱き、高岡の沢田家を訪れ、健在だったはぎ女に直接尋ねたところ、室積伹春の発表には不審な点があり、新聞への投句を止めたのは夫と義母の厳命に因るもので句は自作のものだとの言を得て、それを「俳句研究」10月号に発表した。それが地元紙で大きく取り上げられたことから、「代作説」の真相に関わって山口花笠説の支持者との間に論争が再燃した。その後、はぎ女の句集も出版され、初めて彼女は東洋城の家へ訪れもしたが、謎はそのままで現在に至っているとの歯切れの悪い結びで終わっている。 

 この歯切れの悪さは何だろう。出筆する際、生存している関係者への配慮から躊躇いが生じたのかもしれないし、厳密に究明すると明治大正期の女性の社会的立場や女性俳人の俳壇での立場などにも触れなければならなく、その際に様々な差障りが生じると危惧したのかもしれない。それにしても謎が深まるばかりである。はぎ女に関しては福田俳句同好会編『俳人はぎ女』(平成17年)の好著もあり、はぎ女の句を自ら読み味わって、そこから、銘々の感性で、この事件の真偽に答えを出して欲しい。

 紙数の都合で二件しか謎めいたものを紹介できなかったが、高岡の文学の奥底にはまだまだミステリアスなものが潜んでいる。豊かな文化が産み出した異相なものをその土地に住む人が探り当て解き明かすのも文学作品を読むうえでの楽しみになることだろう。

takaoka

吉屋信子『女流俳人・はぎ女事件』

立野幸雄

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